こんにゃくゼリー騒動に関する雑感
今、こんにゃくゼリーが熱い!!というわけで、遅ればせながら私も取り上げることにいたします。
こんにゃくゼリーによる事故が相次いで(報道されて)いることから、
の記事にあるように、自民党が本気でこんにゃくゼリーの法規制を検討したりするなど、
モラル・パニックの様相を見せています。
こんにゃくゼリーで事故死した子どもの遺族が訴訟を起こすというならまだしも、
や
消費者行政の暴走と、記事隠蔽の痕跡 - 雑種路線でいこう
などを始め、行政の対応などを批判したり、餅も禁止すべきだと揶揄したりする意見が
多く登場していますし、現に規制を議論する場でも、
だが、新法でゼリーの形状などを規制するには「法の下の平等」という点で大きな壁が立ちはだかる。こんにゃく入りゼリーはだめで、モチは規制しなくてもいいのか−という問題だ。
実際、10日の調査会でも谷公一衆院議員が「モチは昔から死亡事故が多い」と指摘した。一方、野田聖子消費者行政担当相は10日の会見で「モチはのどに詰まるものだという常識を多くの人が共有している」と強調したが、「ゼリーだけを規制し、モチやアメを規制しない合理的な根拠は見つかりにくい」(厚労省)というのが実態だ。
という話もあります。その一方で、
俺の蒟蒻ゼリー理論の方が論理的に正しい。
でid:Lobotomyさんが、もっと人が死にやすい蒟蒻ゼリーを作るべきだ。それが過失に見せかけた殺人に
使われるだろう。そうしたら今のような蒟蒻ゼリーを作ればいいと皮肉ったりと、
はてなダイアリーを席巻している話題の一つです。
なかでも、私が共感したのは児童小銃さんの
自由主義の立場から見るとベネフィット/リスク比が低いから規制していい、というのは危ういと思います。そもそも他人が想定するベネフィットはせいぜい大勢の人たちの平均値でしかないのに対して、自由主義は個人個人が自己責任で幸福を追求する権利があるというのが原則です。日本国憲法13条とか。幸せの意味は心の数だけあるのだからそうでないと誰かが抑圧される、と考えるわけです。
という考えです。その理屈がまかり通ってしまえば、数の論理を許すことになってしまいますし、
表現規制問題のように、価値観の違う者同士の神学論争的な論争において、力や発言力が強い側が
勝つことを甘受させられることになってしまうでしょう。
こんにゃくゼリーの騒動を見ると、いろいろな商品(特に大企業の商品)を槍玉に挙げて、
食品添加物などの危険性を訴えた問題作『買ってはいけない』を思い出さずにはいられません。
『買ってはいけない』ロジックを使えば、どんな物でも『買ってはいけない』商品にしてしまえますし、
DHMOロジックを使えば、水はとんでもなく危険な物質だということが分かります。
ついに、消費者問題に関するサヨク的なロジックが自民党や行政にも浸透してきたかという感じです。
表現規制問題に関心のある身としては、野田聖子消費者担当大臣が規制推進派の筆頭格であるなどことから、
表現規制問題と若干ダブらせて見ている面も十分にあります。
表現規制問題と同じ側面としては、こんにゃくゼリーがスケープゴートとして祭り上げられているという
点があるのではないかと思います。
ただ、事実としてこんにゃくゼリーによる事故が相次いでいることから、
少なくとも、こんにゃくゼリーの製造販売禁止は極端にせよ何らかの安全対策をとるべきなのは
間違いないことだと思います。
マンナンライフの製造休止は事故多発を受けて安全対策の措置をとるための苦渋の決断でしょうし、
注意喚起は今まで散々してきたことです。
注意喚起をより強化しても、事故が起こる時には起きてしまうのでどうしたらいいのだろうか…
困ったものです…
もっと穏当な安全対策を取る方法はないのでしょうか…