久しぶりに表現規制問題の落とし穴を語る
『マンが論争勃発』の著者、昼間たかし氏が面白いことを言っていたので紹介したいと思います。
昼間氏は、児童ポルノ法改定に反対するネット署名の文面の問題点をこう指摘しました。
まず、「創作物での性表現の規制」
実はこれは、現在でも刑法175条(わいせつ物等頒布罪)にて取り締まることが可能です。
実際に取り締まられた例もあります。
カンのよい人なら、どこか不味いかすぐに理解できるだろう。
これだけで、問題に対する意識や知識が通り一遍のものでしかないことが伝わってくる。
にも関わらず、文章は非常に強気だ。
その理由は、自分が規制を進める人々の意見を打ち砕くだけの根拠となるデーターを持っていると
いう自負があるからではなかろうか。「感情論だけでモノをいっている」とは、規制を進める人々によくぶつけられる批判だが、規制に反対する人々が
感情的な物言いをしないかといえば、そんなことはない。双方とも、根底には非常に感情的なものが渦巻いていて、
それによって、同じデーターでも見方はまったく異なってくる。
いわゆる「俗流若者論」批判の文脈では、様々な媒体に掲載された言説の一つ一つを取り上げて批判を加えることが
ごく当たり前に行われているが、この手法は一部の論者から非常に冷笑されている。というのも、そうした形の批判を
行う人は自分が予断と偏見を持っているハズがないという前提のもとで作業を進めているからだ。
ひとつの事象を批判すれば、それはまた別の方向から批判に晒される。
その時に、どのように対応するのかが論者の見識をはかる、ひとつの指標となる。
恥ずかしながら、最初の3行でまずい点を理解できませんでした…
私もそう考えているように、「わいせつ罪で取り締まることができる」というのは、
拡大解釈すれば、どんな法律でも広大な範囲を摘発できるということに対する皮肉という
意味合いもありますからね…
私は、どんなに規制推進派の意見を打ち砕くだけのデータを持っていたとしても、推進派の信念を
変えることは不可能だと割り切っています。
ですから、現実論としては法の「改悪」あるいは新法の制定を永久にずるずる引き延ばすか、
詭弁を使ってでも、新たなヒステリックな意見を醸成することによって潰させるといった方法を
取らざるを得ないのではないかと考えております。
「規制に反対する人々が感情的な物言いをしないかといえば、そんなことはない。」というのは
まさにその通りだと思います。ヒステリックに騒ぎ立てている側面が無いのかと言えば、それは
とんでもない大ウソではないでしょうか?
「自分が予断と偏見を持っているハズがないという前提のもとで作業を進めている」というのも
規制推進派、反対派の両方に十分に当てはまることだということも当然理解すべきです。
星新一氏の言葉に、「目のウロコが落ちたのと、飛びこんだのとはどこで見分けるんだ?」という言葉がある。
曰く、「本人は落ちて新しいものが見えだしたと思ってるけど、じつは飛びこんだから見えだしたんだ」
との
ことである。*1
山本弘氏曰く、ウロコとは偏見のフィルターであり、「ウロコ」が目に飛びこむと不都合なことが目に入らなくなり
「目からウロコが落ちた」と錯覚するのだという。
確かに、規制推進派はその典型のように思える。だからといって、規制反対派の目に「ウロコ」が無いとは
限らない。あるはずだというのは確かだが、私がわかる「ウロコ」はほとんどない。
「ウロコ」の存在に気づかなければ、いつかは足元をすくわれるのは間違いあるまい。
表現規制反対派は自分たちの落とし穴を見つける必要があるのかもしれない。と少なくとも私は思います。