規制反対派のジレンマ
規制問題についてちょっと考えていると、このような疑問にたどり着きます。
果たして、どんなものにでも表現の自由を保障すべきだろうか!?
こういったものに関する問題提起がされていたので、取り上げたいと思います。
山本弘氏はノーム・チョムスキーのこの言葉を引用ます。
「ヘドが出るような
http://hirorin.otaden.jp/e95490.html
思想に対しても
表現の自由が
保証されなければ
本物の自由とは言えない」
ヘドが出る思想といえば、その典型的な例は差別主義でしょう。
ドイツなど、多くのヨーロッパ諸国ではナチス・ドイツを正当化する言論を禁止しています。
ホロコースト否定論を処罰の対象としている国も多いのです。
民主主義を否定する言論や、差別を扇動する言論を禁止する国も少なくありません。
ナチスが民主主義的な手続きで全権委任法を(形式上)合法的に通し、独裁体制を敷いたことから、
第二次世界大戦後のドイツでは、「戦う民主主義」といい、国民に基本法(憲法)への忠誠を誓わせ、
民主主義を否定することを認めないという理念を持っています。
「自由の敵に自由を許すな」という言葉でも知られています。
具体的には、ナチスを礼賛する行為などに対する言論や結社が禁止されています。
他に言えば、かつては共産党も禁止されていたほどです。
ドイツ以外でも、差別を扇動する行為が処罰の対象となる国は少なくありません。
ただ、日本でヨーロッパと同様の差別禁止法を作ることの意義は甚だ疑問です。
第一に、人権擁護法案の例で分かるように、猛反対を受けて現実的には通らない。
もう一つ、差別禁止法が成立しても、運用に対して非常に強い疑問がある。
簡単にいえば、在特会の差別的な言動を取り締まることについて機能せず、
逆に、在特会に「逆差別だ!!」と糾弾されて取り締まりの対象になりかねない。
という可能性が十分に考えられるわけです。
つまりは、日本にヨーロッパのように、差別を扇動する行為などを
処罰対象とする法律の運用をできるだけの民度がないというのが現実です。
id:baisemoi_bulletさんもこう語っています。
最近話さなくなったけど、私は在特会やネトウヨが口にする様な差別的な言論を「法で規制する」という対応法に、賛成をしていない。
勿論、「言論の自由」とは書籍にして出版したり、自分のサイトやブログや掲示板で発言したり、食事しながら普通の音量で会話したり、という事だし、「言論が自由だから、その言論に則った行動も自由」ではないという事が含まれるし、その厳密な適用とセットだが。
「自由」というものの恣意性を否定する事が第一であるし、また、もし言論そのものを規制したなら、彼らと彼らを支える日本社会問題を不可視化させ、より彼らにアリバイを与える事にもなる。「言論の自由だ、シナ人」
http://blog.livedoor.jp/baisemoi_bullet/
去年、在特会が秋葉原でプラカードを持っていただけの人物(てか常野さん)を殴打しながら追い回していた時叫んでいた言葉。
これを聞いて、「だから無分別な言論の自由の容認は間違っている」と思った人もいるかもしれないが、それを見て私の考えたのは、むしろ「言論の自由に恣意性を持たせる事」を肯定すべきではないんだという事について。
彼らは、「言論の自由」を口にしながら、常野さんの「排外主義に反対します」という言論の自由をこれっぽっちも認めなかった。
言論の自由に恣意性を認めるという事は、間接的にこういう態度を認めるという事である。
運用に対する不信感と関係なくても、差別的言論を法で規制することは
言論の自由に恣意性を持たせることにつながりかねないというわけです。
「自由の敵に自由を許すな」という考えに対する批判としては、
「そう言った瞬間その人自身も『自由の敵』になってしまう」という話もあるのです。
その通りだ。
http://hirorin.otaden.jp/e95490.html
「表現の自由を守る」とは、「自分にとっての表現の自由」だけでなく「敵にとっての表現の自由」をも守ることを意味している。そうでなくてはフェアではない。
もしあなたが、自分にとって不快な思想を社会から排除することに賛成したなら、いずれあなた自身も排除の対象となる。なぜなら、どんなに健全に見える考えでも、誰かから見たら「ヘドが出るような思想」なのだから。
「敵にとっての表現の自由」をも守るということは、表現の自由を守るには、
規制推進派が主張を唱える自由を守らざるを得ないということになるわけです。
非常に皮肉なことですが、言論の自由、表現の自由に恣意性を許すのであれば、
自分たちもその恣意性の犠牲になってしまいかねないというわけです。
山本弘氏が紹介した、「表現の自由を守る名言集」*1にも出てくる、
「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
というヴォルテールの言ったとされる言葉や、
「自らの自由を確実にする人は、敵すら抑圧から守らなければならない。
なぜなら、この義務に違反すれば、いずれその前例は作った本人に及ぶことになるからである。」
というトマス・ペインの言葉にも同様の意味合いがあります。
結局、何が言いたいかというと、自由を守るということは、
自由を破壊しかねない主張をも守らなければいけないというジレンマなのです。
本当に自由というものはややこしいものですね…
「自由からの逃走」という事態が起こるのも、腑に落ちるぐらいですよ…
本当にこの手の問題は難しい…